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2018.11.04

戊辰戦争と仙台藩〜その時、石巻では<2> 国内の政治的課題

 1868(慶応4)年1月3日の夕刻、京都の鳥羽で放たれた砲撃は、やがて伏見での戦端も誘発しました。それが、1年5カ月に及ぶ戊辰戦争の始まりとなります。

 では、どうしてこの戦争が起こるようになったのかと言えば、その背景にあるのは日本国内の二つの政治的課題でした。

 その一つは、1853(嘉永6)年にアメリカのペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀にやって来て開国を求めたことです。その求めに応じて国を開くべきだという考えに対して、「夷狄(いてき)」すなわち野蛮な異民族を追い払えと言う考えの人もいて、それは「攘夷(じょうい)」という言葉で表現されました。

 二つ目として、政権を担当するのはどの組織かという課題もあったのです。これまで通り徳川幕府が政権を担当すべきだとする考えで、幕府を助ける立場の人は「佐幕(さばく)」と呼ばれました。これに対して、幕府による政権ではなく朝廷、天皇が担うべきだとする考えの人たちもいました。この人たちは、「勤皇(勤王)」「尊皇(尊王)」と呼ばれました。この「尊皇」か「佐幕」なのかという二者択一ではなく、両者が協力する「公武合体(こうぶがったい)」と言う考えも出てきました。

 こうなりますと、開国か攘夷かという二つの選択肢の他に、政権担当の面からさらに三つの選択肢がありますので、日本の進む道としては、可能性として6通りあったことになります。

 どの方向に進むかについては、徳川幕府だけでなく、薩摩藩(今の鹿児島県)や長州藩(今の山口県)など、それぞれの藩の思惑も絡んで最終的には、「尊皇開国」と「公武合体開国」の対立に集約されていきます。

 1867(慶応3)年10月14日、徳川幕府15代将軍慶喜(よしのぶ)は、政権を朝廷に返しました。いわゆる大政奉還(たいせいほうかん)です。

 鎌倉幕府以来の武家による政権担当が終わり、朝廷による政治が始まることになります。明治政府を創る人々はその段階で日本の政治的混乱に決着、つまり「これで終わり」とはしませんでした。大名たちの中には、徳川慶喜前将軍も新しくできる政権に加えるべきだと考える人もいました。しかし、薩摩・長州などは、公家と一緒になって慶喜を政権に加えることに反対して彼の地位を奪っただけでなく、経済的基盤である領地(全国総石高の4分の1)を朝廷に返すよう画策しました。あくまでも敵対勢力とみなし、徳川家をつぶしにかかりました。

 前将軍慶喜は、既に京都の二条城を出て、大坂城に入っていました。しかし、幕臣の中には大政奉還に不満を持つ人たちもいましたし、それらの強硬派は慶喜に開戦を迫り、「討薩」の上表を奉じて、総勢1万を超える軍勢で大阪から京都を目指しました。

 1月3日朝、幕府の大目付滝川具挙(たきがわともたか)は、鳥羽街道を北上して京都に入ろうとしました。しかし、薩摩藩の兵に道を遮られ、一旦(いったん)引き返します。再度通行を求めて交渉しますが、朝廷の許可がなければ通せないといって、交渉は進展しません。薩摩軍側は、初めから通すつもりはないのです。

 夕刻になって、我慢の限度を超えた滝川具挙はとうとう前進を強行します。滝川は、薩摩軍側に戦端を開く口実を与えてしまいました。薩摩軍の大砲、小銃が一斉に火を噴きました。伏見の街に陣取っていた両軍とも鳥羽方面からの銃声を聞くや、戦闘状態に入りました。こうして鳥羽・伏見の戦いは始まりました。

 4日、幕府軍は、近くの淀城に拠(よ)って新政府軍をくい止めようとしますが、譜代の淀藩は、開城を拒否します。同じ日の朝、新政府軍は錦旗を手にしました。これにより、幕府軍対薩長軍の私闘と言う見方から、薩長の言い分が正当化される官軍に対して賊軍(徳川方)の戦いと性格付けられてしまいました。

(石巻市芸術文化振興財団理事長・阿部和夫、毎週日曜掲載)


※戊辰戦争と仙台藩〜その時、石巻では<1> 言葉の違い、一苦労
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/10/20181028t13004.htm


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