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2018.07.11

ロシアに残った若宮丸漂流民〜善六ものがたり<21> 番外編・その後の慶祥丸(下)

アイヌ人の舟

アイヌ人(「クルーゼンシュタインと共に世界一周」より)

 ラショワ島に着いたところで、マキセンは継右衛門に、間もなく冬がやってくる、そうなると航海は困難になる、食料の問題もあるので、自分たちは一冬ここで越す、お前たちも同じように冬をここで過ごすようにと言い渡した。

 心配そうな継右衛門の顔を見て、マキセンはにっこりと笑い「大丈夫だ、心配するな、お前たちの面倒は私たちがみる、余計なことは心配しないで、冬をまず越すことだ、松前に行くのはその後だ」と言った。

 慶祥丸乗組員一行はそれぞれアイヌの家に引き取られ、アイヌの人たちから親切してもらいながら一冬過ごすことになった。

 ここで慶祥丸乗組員たちは思いも掛けない話を耳にする。これから向かうエトロフ島に、たくさんの日本人が渡ってきているというではないか。何があったか分からないが、とにかくそこまで行けば日本へ戻れたのも同然だと、みんな手を取り合って喜び合った。

 一行がラショワ島に着いてから間もなく、ウルップ島から船が1隻やってきた。乗っていたのはロシア人13人であった。彼らもマキセンの手配でアイヌの家に厄介になった。

 まだ冬が終わらない翌年の春、ラショワ島全体が食料不足になった、マキセンはこのままではみんな飢え死にしてしまうということで、まだ船を出す時期ではないが、とりあえず向かいの島ラセリ島に向かうことにする。ここにはありがたいことに鳥がたくさん生息していた。みんなでこの鳥を捕まえ、食料にする。

 そしてシムシル島を経て、マカンル島に到着した。ここで出会ったアイヌからもエトロフにたくさんの日本人がおり、役人たちもいると聞いて一行は力を得る。

 しかし、この話を聞いていたマキセンはここである決断をする。継右衛門を呼び出して、マキセンはとても残念なのだが、これ以上自分たちは日本人たちと一緒に行けない、と思い掛けないことを言い出した。

 エトロフまで行ってくれると信じていた継右衛門には、寝耳に水の話だった。継右衛門は必死になって、自分たちにはもう舟がない、あなただけが頼りなのです、何とかエトロフまで連れていってくださいと懇願するものの、マキセンの決意は固かった。

 彼は身ぶりを交えながら、舟はマキセンたちが作るし、ここまで来れば航海も難儀ではない、おまえたちだけで行けときかない。必死でお願いはしたものの、舟まで作るというからにはマキセンには何かエトロフに行けない特別な事情があるのだろうと、継右衛門はマキセンの言うことに従う。

 今いるマカンルル島には流木がなかったので、レブンチリホイ島に渡り、ここで小舟を作ってもらった。出発するときには食料をたくさん積んでもらい、エトロフまでの海路について詳しい説明をしてもらった。

 マキセンと別れを告げ、継右衛門たちは小舟に乗り込み、ヤチリイホ島を経てウルップ島にたどり着く。風に恵まれずこの島で待機することにするが、積んでいた食料が底をつく。

 ここまで生き延びてきた彼らは、生きるすべを身に付けていた。山に登って草の根を堀り起こし、海藻を拾って何とか飢えをしのぎ、6月28日出発、30キロほど航海して、とうとうエトロフ島のアトイヤにたどり着いた。

 風に恵まれず、高波もあり、しばらくここに逗留(とうりゅう)したあと、マキセンから聞いた日本人の番所があるシベトロ村を目指し、7月2日に到着、早速番所に日本人役人を訪ねる。ここで6人は取り調べを受けた後、7月27日にはエトロフ島会所がある紗那に送られ、身柄を南部藩に引き渡された。

 彼らはその後、択捉島で越冬し、翌文化4年(1807年)4月19日に南部藩士の付き添いのもと箱館行きの船に便乗し、4月24日に箱館に到着した。

 ここで再び6人は取り調べを受けた後、8月14日、6人は迎えに来た南部藩士に引き取られ、4年ぶりに故郷の牛滝村に帰ることになった。

(毎週水曜掲載/大島幹雄・作、太田和美・絵)


※ロシアに残った若宮丸漂流民〜善六ものがたり<20> 番外編・その後の慶祥丸(上)
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/07/20180704t13010.htm


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