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2018.04.01

米軍医が撮った1951、石巻地方<11> 四つ手網漁と定川

 現在の定川(延長約17キロ)は、旧河南町と旧矢本町などを流れて石巻港に注ぎます。江戸時代初期までは、玉造郡(大崎市鳴子温泉町)の荒雄岳を源流としたことから、玉造川や荒雄川、江合川、領主名から照井川などと呼ばれて、直接、大曲海岸で海に注ぐ河川でした。

 川村孫兵衛重吉が1616年、江合川、迫川、北上川の3川を合流した後、旧河南町龍ノ口付近で水源が断たれたことから、それ以降は定川と呼ばれています。

 平たん地を流れる定川は、満潮時には海水が遡上(そじょう)します。川沿いの両岸に「ヨシ」の群生が見られるのは、流速が遅いことでヨシが生育する淡水と海水の混在する汽水域ができていることを示しています。

 定川は夕刻、一日働いた農耕馬の体を洗い水浴びさせる所でもありました。母親の実家が南赤井の川前にあったので、子どもの頃、定川によく行きましたが、水面の小屋は何だろうと不思議な思いで見たものです。やがて川魚を漁獲する四つ手網小屋と知りました。

 四つ手網は、正方形の袋状の網に餌を付けて水中に沈めておびき寄せ、魚が網に入るのを小屋で見張り、入った瞬間に引き揚げて漁獲する漁具で、敷網の一種です。北上川流域の迫川、鳴瀬川でも同様の漁法でコイ、フナ、ナマズなど、汽水域ではコノシロ、ハゼの小魚、北上川の県境付近では生まれた川に戻ってくるシロザケを狙い、昭和50年代には万石浦でシラウオの四つ手網漁を目にしています。

 1951(昭和26)年ごろは食糧難から抜け出したとはいえ、四つ手網で漁獲された小魚は、内陸部で鮮魚が入手できない農家の貴重な動物タンパク源と「だし魚」となり、いろりや台所の天井には竹串に焼き魚を刺した「弁慶」の光景が見られたものです。(郷土史家・辺見清二)


※米軍医が撮った1951、石巻地方<10> 仙石線石巻駅前
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/03/20180325t13011.htm


<情報をお寄せください>
 掲載された写真は、撮影者の長男アラン・バトラー氏のウェブサイト「Miyagi 1951」で閲覧できます。https://www.miyagi1951.com/
 写真に関する情報は辺見氏 090(4317)7706 にお寄せください。


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