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2018.01.10

戊辰戦争150年・中津山の侍たち<17> 代官が食糧確保に尽力

八十里越終点となる福島県只見町叶津の国道289号山の向こう側が新潟県

 越後から山を越え避難してくる人々は、会津藩とその領民によって救われました。しかし、その陰では、食料調達の責任者の切腹という事態まで起きています。

 現地の食料調達は、会津藩野尻代官の丹羽族(にわやから)がその任に当たっていました。丹羽代官は、その年の5月に着任すると、只見村に常駐して鈴木平六宅を役宅として受け入れの指揮をとっています。

 米や味噌(みそ)は、会津城下から供給されていました。しかし、悪天候が続き城下からの輸送が滞り始め、加えて、避難する人数が増えてきたため、たちまち食料危機になってしまいました。

 そこで、丹羽代官はそれを打開しようと、「只見代官所」の名前で古町(ふるまち)・和泉田(いずみた)・黒谷(くろだに)・大塩の各組に「御蔵備の兵糧を残らず出すよう」指示をし、また、土地の裕福な家にも協力するよう申し付けました。そして、丹羽代官自身が各地を回り、食糧確保に尽力しました。

 しかし、寒村での食料現地調達には限界がありました。万策尽きた代官は、「諸藩は勿論、上に対し御申訳相立て難」と部下に事後を託す遺書を残し、役宅の一室で自刃して果てました。

 丹羽代官の切腹を知った村々の人々は、わずかな蓄えも拠出し合って協力したので、深刻な食糧危機を何とか脱することができました。

 このようにして会津藩は、長岡藩や奥羽越列藩同盟の兵の退却、避難してきた人々を救済してくれました。そのおかげで、黒沢家中の一行も只見地方のどこかの村で食事や宿のお世話をしてもらったと考えられます。

 そして、塩沢・会津坂下(あいづばんげ)を通り、やっと会津若松にたどり着きます。しかし、仙台領に帰るのに、平坦な道の福島ルートは新政府軍に抑えられています。やむなく裏磐梯山麓を迂回(うかい)する方法しかありません。

 磐梯山の噴火は、1888(明治21)年7月ですから、噴火でできる檜原湖(ひばらこ)などはまだありません。恐らく、後で湖となる低い土地を通って米沢に抜けたと推測されます。

 そして、山形から笹谷峠を越え、8月14日(新暦9月29日)に仙台に帰ることができました。

 なお、石巻市図書館が所蔵する文書(※13)の中に、「石ノ巻菊地屋ト申旅篭屋ニ長岡家中男女弐拾五人先月廿四日ニ参り候」と書かれたものがあり、長岡を脱出した人々の中で石巻まで来た人たちがいたことが分かります。

(石巻市芸術文化振興財団理事長・阿部和夫)=毎週水曜掲載


(※13)伊勢屋文書「石巻の歴史第十巻」2ページ(戊辰戦争中の石巻に関する書状)


※戊辰戦争150年・中津山の侍たち<16> 会津に抜ける難所越え
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2017/12/20171227t13008.htm


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