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2017.12.06

戊辰戦争150年・中津山の侍たち<13> 長岡城奪還と敵塁占拠

只見町河井継之助記念館(写真提供:福島県只見町河井継之助記念館)

河井継之助(写真提供:同記念館)

 7月24日(新暦9月10日)の夜に攻撃を開始した仙台・会津・米沢3藩の兵は、25日にひとまず土ケ谷から退却をしました。

 その同じ日の朝、長岡軍は奪われていた長岡城の奪還に成功していました。

 新政府軍の参謀山縣狂介(やまがたきょうすけ)〔後の有朋(ありとも)〕は小千谷(おぢや)方面の妙見(現長岡市)に、西園寺公望(さいおんじきんもち)は信濃川を渡って関原(現長岡市)に撤退しました。また兵の一部は、柏崎(現柏崎市)まで逃げ、新政府軍は混乱してしまいました。

 敵に蹂躙(じゅうりん)されていた故郷を奪回した長岡兵に対し、城下の人々は道に酒樽を出して振舞って祝いました。

 しかし、薩摩兵が反撃に転じてきました。指揮官の河井継之助が昼ごろ、城下の応援に出た際、左膝に銃撃を受けてしまいます。このため、河井は戦闘指揮に出られぬ程の重症で、それがもとで、やがて彼の命を奪うだけでなく、指揮官を失った長岡軍の士気をも奪うことになってしまいました。

 長岡をとり戻す作戦は成功しましたが、土ケ谷の敵塁が未だ残っています。そこで黒沢隊等の同盟軍は、26日の明け方、敵がまだ寝ているところを襲いました。敵も銃を取って応戦し、互いに塁を取ったり取られたりの一進一退でした。

 しかし、何とか敵本塁に迫った時、味方の会津藩陣中から勇壮なラッパの音が響き渡り、どっと歓呼の声が挙がりました。黒沢隊の兵士もこのラッパの音に励まされ、最後の勇を振るって敵兵を追い落とし、本陣を占拠することができました。苦心惨憺(さんたん)をしての勝利だけに、将兵の感激は歓呼の声となって山々を揺るがす程でした。

 黒沢隊の三番小隊長だった織野敬助彦四郎は、年老いてから「あの時の勝利は、味方の鳴らすラッパの音がもたらしたものだ」と語っています。

 土ケ谷の戦場には、戦死者の遺体が残されていました。前日は激しい戦闘だったために、戦死した八木高明隊長の遺体も収容できないままでの退却でした。その翌日、八木隊長は、死者の尊厳を冒涜(ぼうとく)された姿で見つかりました。

 黒沢隊の将兵の悲憤慷慨(ひふんこうがい)は察するに余りあります。戦場に残された弾薬箱、敵兵遺体の袖章、残された毛布等の標識から、人間にあるまじき行為をしたのは、長州藩、福井藩、大村藩、松代藩のいずれかの藩兵であることが分かりました。

(石巻市芸術文化振興財団理事長・阿部和夫)=毎週水曜掲載


※戊辰戦争150年・中津山の侍たち<12> 土ケ谷の戦闘で戦死者
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2017/11/20171129t13010.htm


◇石巻と幕末歴史さんぽ/榎本艦隊集結の地(石巻市折浜)

 1868年(慶応4)年8月20日(旧暦)、榎本武揚(えのもとたけあき)ら旧幕府軍の艦隊8隻が江戸の品川沖を出港、暴風雨に襲われ2隻を失うが順次石巻湾に入り、東名(とうな)、寒風澤(さぶさわ)に停泊。

 後に仙台藩の降伏を受けて、牡鹿半島の折浜(おりのはま)に移動。食料や物資を調達するとともに、旧幕府の侍たちや新撰組、会津藩士、仙台藩の額兵隊(がくへいたい)などを乗せて10月12日、蝦夷地(えぞち)(北海道)に向けて折浜を出港した。

 折浜に近い桃浦(もものうら)の洞仙寺(とうせんじ)には、榎本が乗船していた開陽丸の乗組員・中井初次郎の墓がある。塩飽(しあく)諸島広島出身(香川県丸亀市)の水主(かこ)で、優秀な働きをしたため苗字帯刀を許されていた。開陽丸の艦上で倒れ、10月6日に亡くなった。35歳だった。


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