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2017.08.20

石巻・日活パール劇場支配人の清野さん逝く 興行一筋60年

チケット売り場での清野さん。最後まで現役映画館主だった(2016年7月)

石原裕次郎をデザインした看板やのぼりで飾られた日活パール劇場。のぼりは通りの向かいにも。全盛期のにぎわいを伝えている(昭和37年1月の正月興行)

若い人に人気があった吉永小百合の映画。「あいつと私」公開時。女子高生らしきグループも見られる(昭和36年)

 60年にわたって映画館を経営した日活パール劇場(石巻市中央1丁目)の支配人、清野太兵衛さんが5日、心不全のため亡くなった。90歳だった。

 日活の娯楽作品で市民を楽しませ、映画が斜陽になっても成人映画に活路を見いだした。シネコン時代になると地方から個人館が消えていく中、県内唯一の個人館として最後の砦のように奮闘、東日本大震災の津波さえ乗り越えた。

 マラソン愛好者という顔も持ったユニークな映画館主は、いつもニコニコと応じてくれた。個性的な昭和の石巻人、映画人がまた一人、いなくなった。少し高いトーンで、映画を熱く語ってくれた姿が忘れられない。

 「石原裕次郎の映画は入ったよ。凄かったのは吉永小百合の『いつでも夢を』(昭和38年)。石巻の若者が全員、押し掛けたのではと驚いたくらいだった」

 が、パール劇場の名前で開館(昭和32年)した当初は、閑古鳥が鳴いたという。社交ダンスホールを映画館に変えてまで“映画愛”の凄かった人だが、興行は別だった。しかもスタートは意外にも洋画。それが入らなかった。

 強運の持ち主だった。ちょうど全盛期を迎えていた日活が、地方に専門館を求めていた。好機を見逃さなかった。日活の作品だけを上映する約束を交わし、館名を日活パール劇場と名乗った。快進撃が始まった。

 「裕次郎や小百合のほかに小林旭や赤木圭一郎がいた、浅丘ルリ子もいた。一日に2000人から3000人、入った時もあった」。往時のにぎわいぶりをよく自慢した。

 当時、小学生だった長女は、「渡哲也や高橋英樹、松原智恵子が父のところに来た。川開き祭りのパレードにも参加した。皆さん若かった」と振り返る。温厚で、誰にでも分け隔て無く接した。スターたちからも慕われたに違いない。

 一方、筋を通す人だった。一緒に石巻地方の映画文化を盛り上げたテアトル東宝支配人だった稲井峯弥さん(86)は心に強く残っている出来事があるという。「映画産業そのものが斜陽になり、日活も全盛が過ぎ、ロマンポルノに路線変更した時。映画館を止めていく同業者が多い中、清野さんは日活と運命を共にすることを決めたんでしょう。日活との約束を守り通した」

 最後に取材でお会いしたのは昨年7月。天井近い箇所に津波の高さが記されていた。2メートル50センチとあった。「被災から3カ月後には再開したよ。常連の人たちの社交の場だからね」。興行主の意地と誇りを垣間見た。

 震災後、病気をし、大好きだったマラソンも控えていた。「ホノルル、ボストン、ベルリンと、世界各地のマラソン大会に出場したものだよ」と熱弁。映画経営の傍ら、マラソンを生きがいとした在りし日の清野さんが思い浮かぶ。

 稲井さんは、「怒ったところを見たことがなかった。柔和な表情で宮城県の映画興行界をバックアップしてくれた。人格者だった」と先輩の映画人をしのぶ。

 昭和30年代、街中には日活パール劇場、テアトル東宝、文化劇場、東北館、岡田劇場と5館あり、映画館をはしごする市民らでにぎわった。華やいだ港町・石巻の映画文化を支えた一人が、走る映画館主・清野太兵衛さんだった。(文)


<リボーン会場に>

 日活パール劇場は休館状態だが、現在、リボーンアート・フェスティバル2017の展示会場の一つに利用されている。

 その後も貸しホールとしての活用を検討している。


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