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2017.04.19

女川騒動と飯田口説[2]逃避経路 苦難の日々と脚色の跡

旧飯田屋敷から翁倉山へと向かう山道

気仙沼市唐桑町の熊谷家が所蔵するお節のものとされる櫛と笄

お節の小袖で作ったとされる七丈袈裟が保存されている真称寺=大船渡市三陸町

 今回は、女川騒動の渦中にあるお節と喜右衛門の逃避の足取りに、「口説」を織り交ぜて紹介したい。

 1752年〔宝暦2年〕4月8日の主殺害事件は、飯田家の領内にある薬師堂の春の例祭の前夜に起きたと伝えられている。ちょうど夜桜の見頃の時季である。「桃生一番あわれな花よ…」と歌われた、お節と喜右衛門の茨(いばら)の道を歩く逃避の日々が続く。

 「人の通わぬ翁ケ嶽を
  根笹かや原かき分けながら
  知らぬ山路をよろよろ下りる
  みとろなければ水戸辺の宿よ」

 事件のあった飯田屋敷から翁倉山の麓を、手を携えて逃亡する様子が口説に切々と詠まれている。

 仙台藩5代藩主・伊達吉村の御落胤(ごらくいん)〔身分の高い男が正妻以外の身分の低い女に生ませた子〕と言われているお姫様育ちのお節には、さぞ難行苦行の悲恋の道行であったろう。

 水戸辺郷〔南三陸町戸倉〕に下りた2人は、飯田家と交誼(こうぎ)の仲にある河東田家に立ち寄ったと言われている。身をやつし、昼は深山の繁(しげ)みに隠れ、夜道を手探りで落ち延びていく2人にとって、難儀の連続であったことは想像に難くない。

 2人は慣れぬ野宿と捕縛に怯(おび)えながら、お節の義兄 大塚伊豆幸頼(いずゆきより)〔仙台藩西永井領主、一関市花泉〕と気脈が通ずる高田〔陸前高田市〕の藤七(とうしち)を頼って一路街道を進む。

 口説には、
 「直(じき)に藤七対面ありて
  2人喜び座敷へ座り
  我等女川落人なるが
  陰を暫(しばら)く隠してたもれ」
と、対面の様子が詠まれている。

 高田までの道中には、2人が身に付けていた品々を路銀に変えた証拠が残されている。お節の櫛(くし)、笄(こうがい)〔髪をかき上げるための用具〕が唐桑舘〔気仙沼市〕の熊谷家に所蔵されている。

 口説に
 「最早(もはや)2人は唐桑通り
  急ぐ山路や御崎に登り」
と、高田へ急ぐ2人の姿を詠んでいる。

 斯(か)くして2人は藤七にかくまわれ、藤七と兄弟分の釜石にいる仁助(にすけ)のもとを訪ねる。

 「先(ま)ずは仁助に対面ありて
  そこで藤七申さるようは
  是(これ)は仙台落人なれど
  どうぞ2人を隠してたまえ」
と、藤七が仁助に2人の庇護(ひご)を乞(こ)い願う場面が詠まれている。

 このように飯田口説では、お節と喜右衛門が仁助の庇護を受け、隠匿生活を送る最中に、密告や路銀の品で足が付き、仙台藩同心に捕縛されたことになっている。

 しかし、現地調査や文献などから、2人が高田から根白(こんぱく)〔大船渡市三陸町〕に立ち寄り、当地の旧家西村家に宿泊したことが判明した。明日は南部領に逃げ延びられると安堵したのだろう。2泊し、逃亡の疲れを癒やしたと言う。

 片時も肌身離さず着用したお節の小袖が、代々、西村家に所蔵され、後に七丈袈裟(しちじょうけさ)に裁縫されて当家の菩提寺・真称寺に保存されている。生地や精巧な刺繍(ししゅう)などから、御落胤のお節が着用した代物であることが頷(うなず)ける。嫁入りの折に藩主吉村公が持参させたという推測もできよう。

 以上のことから、2人の釜石の逗留(とうりゅう)と捕縛は、口説の脚色の色合いが濃く、お節・喜右衛門の逃避と捕縛に新たな展開を見ることになる。


※女川騒動と飯田口説[1]事件のあらまし 史実との違い浮き彫り
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2017/04/20170412t13012.htm


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