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2017.03.18

生まれ変わる内海橋(1) 完成まで17年 内海五郎兵衛、難題克服

五郎兵衛の願いがかない架橋された木造の内海橋=明治21年5月、県東部土木事務所提供

内海五郎兵衛=県東部土木事務所提供

 石巻市中心部と湊・渡波方面をつなぐ新しい「内海橋」の建設工事が、2020年度の完成を目指して行われている。

 1882(明治15)年の架橋から130年余り。度重なる自然災害の被害を受けながらも補強、改修を繰り返し、交通の要所として石巻の発展に貢献してきた。

 人々のさまざまな思い出と歴史を刻んできた内海橋を取材した。(伊藤浩)=7回続き

   ◇

 北上川を渡るには、渡し船しかなかった。そんな時代に、壮大な夢を抱いた人がいた。架橋を考えた内海五郎兵衛(1841〜1908年)。不屈の精神で大事業を成就させ、橋の名前になった人物だ。

 五郎兵衛は、牡鹿郡水沼村の農家の長男として生まれた。意志が強く働き者。父親が病気だった友人のために、川で魚を捕って売ったり、わらじ作りを手伝ったり…。そんなエピソードが示すように、困っている人に救いの手を差し伸べる優しい人物でもあった。

 農業の傍ら、妻と造り酒屋を営んでいた。24歳の時、病気の父が重体となった。川を隔てた石巻村から医者に来てもらわなければならなかった。暴風雨の中、五郎兵衛は渡し場まで急いだが、洪水のため船は欠航。医者を呼ぶことができず、父を亡くした。

 目と鼻の先にある石巻村が遠くに感じた。悲しみと悔しさから、架橋の必要性を痛感した五郎兵衛は、公共の利便性を図るため、橋を架けることを決心。一生懸命働き、建造のための勉学にもいそしんだ。

 実現にはさまざまな課題が山積していた。最大の問題は、建造費用。渡船業者の強い反発を招き、周囲からは「無謀な計画」と否定的な意見も相次いだ。

 しかし、五郎兵衛の気持ちは揺るがなかった。熱い思いを理解する人たちが徐々に増え、石巻、湊村議会の支援などもあり、実現にこぎ着ける。

 架橋既得権を持っていた石巻本町の田辺吉助から権利を買い取り、82(明治15)年、県令(県知事)の認可を受け、その年に橋を完成させた。北上川最初の木橋だった。

 認可を受けるまで、約1年間掛かり。記録に残るだけでも、5回の願いや上申書を県に提出している。資金は、私財をなげうって木材を用意するなどした。工事中、2度も自然災害で橋材が流され、資金は枯渇するものの志を果たす。

 橋建設の思いを抱いてから、17年の月日が流れていた。

 歴史的な事業だっただけに、県知事らが出席し、盛大に落成式が行われた。「石巻の歴史」第二巻には、「完成を祝う祝詞や詩歌から、内海五郎兵衛の労苦を知るだけでなく、永年周辺地域住民が抱いてきた架橋への期待の大きさをうかがうことができる」と記されている。

 晩年、天理教を信仰し、登米市中田町の布教場で亡くなった。五郎兵衛の偉業は、多方面に恩恵をもたらし、100年以上たった今でも多くの人たちの生活を支えている。

 初代内海橋について、石巻市史編さん委員などを務めた故橋本晶氏は「北上川物語」(三陸河北新報社編)で「石巻の近代化の第一歩は、内海橋の開通だった」と話している。


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