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2013.11.24

伝える 私の3・11/親住む長面目指す がれきの中に店の看板

石巻市北上町十三浜から長面海岸の松原荘があった付近を遠望する。周辺では護岸工事が進められている

木下智也さん

<33>飲食店経営 木下智也さん(25)=石巻市大森

 当時は松島町のホテルの厨房(ちゅうぼう)で働いていた。石巻市長面海岸で実家が営む民宿「松原荘」を、いずれ継ぐための修業だった。

松島で高台避難

 2011年3月11日は東日本大震災発生後、津波を警戒してホテルのスタッフ十数人で車に分乗し、高台に避難した。間もなく、下を通る国道45号まで津波が押し寄せたと伝わり、下りてみたら確かに冠水していた。

 携帯電話は通じず、家族への連絡は当面諦めた。エンジンをかけた車中で過ごし、明るくなってから歩いてホテルに向かった。幸い、フロアは浸水していない。みんなで散乱したものを片付け、2晩目はホテルで休んだ。

 ラジオやテレビで大変な被害は分かったが、追波湾周辺の情報が乏しい。「つまり、大丈夫なのだろう」と、今思えば理由をつけて安心しようとしていた。

 震災から3日目。職場の許可をもらい、石巻市を目指した。同僚1人が付き添ってくれた。最初に衝撃を受けたのは、東松島市で鳴瀬大橋の上流まで車やがれきが重なっている光景だ。小野の先は水浸しで大塩を迂回(うかい)し、石巻市の門脇に出ると、貞山運河から海側も別世界のようだった。

 それでも、実家は津波を想定していたはずだし、建物はともかく、父母と祖母、2人の妹は避難しているだろうと思っていた。先に二番谷地の叔母宅と避難所の青葉中へ行ったら、叔母と一緒に祖母がいた。たまたま市内の病院に来た後、叔母宅で地震に遭った。しかし「他の家族のことは分からない」という。携帯電話が通じ、妹たちも内陸部の友人宅で無事と分かった。

 ビッグバンに行き、両親を捜すが、見当たらない。ホワイトボードの避難者名簿にも名前はない。顔見知りや親戚が何人かいたが、両親の安否は分からないという。答える声が沈んでいた。

 「長面は壊滅」と耳には入っていたが、この目で見たいと思った。流木やがれきが堤防の上にまで乗り、行き交うのは緊急車両ばかり。大川中前で通行止めとなり、間垣から先の堤防が崩壊していた。新北上大橋も橋桁が流され、残った橋桁に折り重なるがれきで津波のすさまじさが分かる。

 いったん松島に戻り、翌日は1人で石巻に向かった。職場からガソリンとたくさんの食べ物を分けてもらい、布団一式も車に積み込んだ。

けがの父と会う

 再びビッグバンに行くと、「父がいる」と知人が教えてくれた。腕にけがを負い、治療が遅れたため重症化していた。避難中に新北上大橋のたもとで津波に流され、山ののり面をはい上がって助かったという。その後は近くの民家の2階で1晩、入釜谷生活センターに移って1晩を過ごし、移送されたらしい。

 父も、母の安否は分からないという。母は11日午後2時ごろに歯科医院から民宿に帰り、地震後は釜谷に向かったらしい。釜谷診療所の前で立ち話する姿を、助かった人が見ている。何週間か後に、母の車がぐしゃぐしゃの状態で見つかった。

 その後もどこかの避難所に紛れ込んだり、ヘリコプターで遠くに運ばれたりしたかもしれないと思い、捜し回った。正直怖かったが、遺体安置所にも足を運んだ。見つけることはできなかった。

 ある日、ビッグバンで「松原荘の看板が間垣に流れ着いている」と教えられた。行ってみると、がれきの中に、確かにうちの看板がある。一部が欠け、泥だらけだ。「母の形見かもしれない。祖母に見せたい」と思い、持ち帰った。

 長面の民宿を守り継ぐ望みは絶たれた。松島のホテルは5月から復旧支援の人員を受け入れて満室。自分が役に立てるのは食事を提供することしかない。できることをやっているうちに「手元に戻ってきた看板は自分の店をやれと言っているのではないか」と思えるようになった。

 8月、大森に見つけた物件を借り、飲食店から再開することにした。名前はもちろん松原荘だ。


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