〔6〕第2の謎 「設計者」(下)

住まい探偵帖@石巻

施主も主体的に携わる

 波をかぶり、緊急保存のため現在冷凍保存されている神山捨松さんの「作事帳」。これが解禁されれば、神山家の設計施工の実態がもっと明確になるだろう。

 私は、捨松さんと及川棟梁(とうりょう)が主体となって実際に施工を進めながら設計デザインを決めていき、さらに地域の人々も設計に加わった可能性があると推理する。

 昔の施主は設計もやった。もちろん職人ではないから施工はできないが、技能を評価できるだけの審美眼もあった。施主は現場監督的な役割も果たして、お金を管理し材料の調達や職人の手配をした。神山家の造り方は、この直営方式に近かったと思う。

 それを強く感じるのは、正方形の神棚だ。あの二重三重に考え抜かれたデザイン構成は単なる思いつきで作れるものではない。捨松さんと地域の人々と気仙大工の知恵と技術の結晶なのではないか。

 立派な神棚は石巻市河南地区などの富裕層の民家にも見られる。この辺は特に神様を大事にする地域なのだ。気仙大工の地元では神棚より仏壇が立派で、気仙大工は仏壇が得意との評価が高い。だが、別に神棚が苦手というわけではない。

イラスト・佐々木麻衣

イラスト・佐々木麻衣

 気仙大工は何でもこなす。そうでなければ出稼ぎはできない。基本は家大工だが、神社・仏閣も造れる技術があり、さらに高所作業が得意で建具や指し物も、彫刻までやってしまうスーパー大工だから引く手あまただった。

 伊達政宗は氾濫する北上川を改修し、低湿地の新田開発を進めた。その結果、石高が増大、各地から農民が入植した。もともと大工などの職人が少ない地域だったから気仙大工は大歓迎。仕事を通じて地元の大工に技術を教える先生でもあった。

 農繁期は農作業も手伝い、真面目で堅いと定評のある気仙大工は気に入られて婿養子になった記録もある。

 あるいは小四郎さんは橋浦に婿養子に来たのではあるまいか? その仕事を指導し、一人前にするために父親の平三郎棟梁が気仙から来たというのは妄想だろうか?

 「息子が地域の人に大事にされ、嫁さんがきれいで良かったなあ…」。平三郎棟梁の感謝の気持ちも、あの神棚に込められているのではと考えたくなってしまう。

 棟礼にある「外大工五人」は小四郎さんの弟子か仲間か。いずれにせよ、この家は気仙大工の「技術伝承の学校」だった可能性もある。神山家であえて気仙大工の伝統のデザインではない正方形に挑戦した物語も読み取れるのではないだろうか。推理(妄想?)はどんどん広がっていく。

(1級建築士・那須武秀)

【2014年4月6日(日)石巻かほく掲載】


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